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SF / SR / SP ―中井浩史の挑戦 / 批評:岩﨑陽子
太古より人間は様々な道具を使って平面の上に形象を描いてきた。自分が見ているものを形として定着させたいという衝動は、ホモ・ピクトル(絵を描く人)としての人間に根源的に備わった、いわく言い難い欲望であったといえよう。現代にいたるまでの絵画史を概観するだけでも、考え得る限りの材料、技法が試され、様式は移り変わってきた。それでもホモ・ピクトルとして画家は「絵画とは何か」を正面から問うことによって、応答としての「絵画」を生み出し続けている。 しかし、どのように絵画の可能性がおし拡げられ、新しい潮流が生み出されたとしても、古来よりずっと変わらない事実が一つだけある。それは「絵画はいつも人間というフィルターを通して描かれてきた」ということである。絵画のもつ主題が壮大な歴史物語であったにせよ、個人的感情であったにせよ、それは人間の内面的心情を表現(ex-press 外へ出す)したものであった。たとえ何ら心情的解釈を許さないような抽象画であったとしても、そこで抽出(ab-stract 他から分離する)されたものは「人間にとっての本質」であり、平面に引かれた線描は、今・ここに存在した人間の身体の痕跡としてなぞられる。抽象画も具象画と同様に、人間フィルターを介した「人間中心主義」の産物だと言えるのである。つまり、この世界の一点に身体をもって位置し、「私」という意識の殻から抜け出ることのできない人間には、人間フィルターを介さない世界を描くことがおよそ不可能なこととして不問に付された(シュルレアリスムのオートマティスムもアクション・ペインティングも、無意識や行為の偶然性といった、もともと人間に備わるものを反転させたにすぎない)。そもそもそのような絵画の可能性を誰も考えようともしないほど、絵画において人間中心主義は蔓延してきたのである。 単純な形のサイコロ一つをとってみても、人間はその最大3面までしか同時に見ることはできない。しかし立方体が3面しか見えないということは、私という存在がその世界の片隅に位置していることの何よりの証左である。人間は対象それ自体を完全に把握することができず、意識や身体によって対象の一面しか把握できない。 このように人間の認識の限界を認めることは、ある時から反転して世界を人間の尺度でのみ見ることを正当化した。人間にとって認識できる範囲については日々先鋭化されていき、膨大な人間の知の集積を活用したAIが昨今の話題を呼んでいる。しかし一方で人間は自らの知識の外側にあるモノと共通の世界に生きていることも、うすうす感じている。よって人間が自分を取り囲むすべてのものが、たとえ人間の認識の埒外にあっても、等価の価値をもつだろうということに明白に気づく時、新しい知の地平が拓けるはずである。とはいえそれは新しいヒューマニスムやモノに与えられた汎心論などではなく、従来の人間の思考の外に極限まで出て行くことを意味している。「コウモリであるとはどういうことか」という有名な思考実験があるが、その時思考は、自ら自身の基準を参照することはもはやできず、既に見知った人間界の言葉も、形象も、道具も、意味をなさない世界の前で立ち尽くすであろう。 それでは人間の認識の限界を含み込んで成立してきた思考を阻み、消去して人間中心主義を越えることは、絵画において可能であろうか。中井浩史の絵画は、この問いかけへの応答であるように思われる。彼の絵画における挑戦は、こうした「新しい絵画」を成立させるために自身が制定した二つの条件に直結している。 条件の第一は、フィクションとして画面を現出させることである。人間が人間中心主義を超えるのであるから、もともとほぼ不可能なことを「想像力」によって成立させようとしている。よってフィクションをフィクションとして自覚していることに、作者も鑑賞者も意識的でなければなるまい。ここで矩形の、厚みをもったキャンバスが、フィクションを立ちあげる装置としての役割を果たす。世界をまんべんなく覆う人間フィルターの中に、何らかのオブジェとして作品が紛れてしまうとそれ自体がフィルターと一体化して埋没してしまう。しかし人間フィルターの覆いを拒むキャンバスの白い矩形は、その内部を外界から独立させる。 第二の条件は、描く際のルールを制定することである。人間の内面表現や身体の痕跡をキャンバスに残すことが目的でない以上、何か別の制作原動力が必要である。また人間が絵筆を持って描く以上、その意志を阻止する必要がある(たとえアール・ブリュットの作品のように一見束縛なく自由に描かれているように見えてもそれは未だ人間の知や身体の範疇にある)。結局、「人間にとって偶然性を孕むように見える、人間以外の何モノかにとっての必然性」が要請されるのである。例えばキャンバス上に既にあるシミや、事前にランダムに引かれた線などを手掛かりに、絵筆は自らの意図が定まる前に素早く進められていく。まるで画家として習慣的に綺麗にまとめてしまう構成能力から逃れるように、自分の思考が追い付くのを振り切るように、速度を速めて筆が進む。自分以外のモノによる偶然性に頼りつつ、そこにそのモノの必然性を想像して画面が構成されていく。そこで起こっているのは、人間という媒体が存在しつつ、あくまでもフィクションとして、想像上の人間以外のモノのルールで絵画が成り立っているという不可思議な事態である。結局、人間は月についての有限な認識しか有していないにも関わらず生命の神秘が常に月に関わっているように、人間思考の外側にあるものを「非科学的」と排除しつつその影響から逃れることはできない。中井作品はこの危ういバランスをあえてフィクションとして再構成し、思考の先にある深淵の世界を意識的に覗き込もうとする試みなのかもしれない。 二つの条件を満たしたキャンバスは、この世界の隅々にまで行き渡った人間フィルターがそこだけぽっかりと切り抜かれた孔のようである。そこに見えている画面の中身は、もはや色面の上に描かれた線描などではなく、人間中心主義から離れたところで自律的に成立した(と見せかけられている)面と面のせめぎあいであり、線と余白の緊迫した均衡である。見慣れた風景の中に穿たれたその孔は、こちらからあちらを恐る恐る覗くための窓のようであり、またあちらがこちらの世界にやってくるためのくぐり戸のようでもある。そこに見えている世界は異邦の地である。いずれにせよ、人間の視点が消去されたその世界は、不気味でもあり、美しくもある。 岩﨑陽子 いわさき ようこ 美学研究者 / 1973年生まれ / 大阪大学文学研究科博士課程修了 / 博士(文学) / 現在、嵯峨美術短期大学准教授 / 専門はフランス美学・哲学 / 味と匂い研究会 Perfume art Project 代表 |